建築の死後の儀式について

 今日は、建築の看取り方について、書いていきます。

 もともと、建築は生物のような存在なのではという問いをしてきました。そこで、ひとつ疑問があります。なぜ人間は他界するとお葬式というイニシエーションをするのに、建築は使用されなくなると解体・破壊されてしまうのか、ということについてです。

 では、建築のお葬式をすることにしたら、何をすべきでしょうか。どんなイニシエーションが必要でしょうか。

 人間の場合は、まず通夜があります。『日本古来の葬儀儀礼として「殯(もがり)」というものがあります。家族が死ぬと、一定期間、生前と同様に食事を出すなどの世話をする習慣をさします。通夜はこの殯の遺習であるとも言われています。確かに現代でも、身近な者の死はなかなか受け入れがたい事実。心のどこかでは、まだ生きていると思いたいものです。通夜では、このような遺族の心情を最も大切にします。(公益社https://www.koekisha.co.jp/manner/tsuya/)』

 建築の場合の「殯(もがり)」ではどんなことをするのでしょうか。使用しなくなった建築で、一定期間、建築が以前使われていた習慣を再現することでしょうか。そこの元住人に呼びかけて、以前と同じような振る舞いをしてもらい、その記憶を再度蘇らすのはどうでしょうか。そしてまだこの空間・雰囲気が生きているような感覚が現れてくるのでしょうか。

 『では葬儀と告別式は、それぞれどんな意味があるのでしょう。まず葬儀は、死者をこの世からあの世へと送り出す宗教的な儀式。故人の霊魂のための時間です。仏教での一般的なお葬式の流れで言えば、僧侶が読経を行っている時間がこれにあたります。遺族やごく親しい人が中心になって営まれます。次に、告別式は、故人の友人や知り合いが参加する社会的な儀式です。参列者は、遺族に慰めの言葉を寄せ、ひとりひとりが焼香したり献花をするなどして、故人に最後の別れを告げます。(公益社:https://www.koekisha.co.jp/manner/sogi/)』

 建築の場合の葬儀と告別式とは、どんなことを指すのでしょうか。まず葬儀は、死んだ建築をこの世からあの世へと送り出すための宗教的な儀式で、建築の魂のためのものです。その建築に関わった方々を集め、その建築についての思いや記憶を語り明かしたりするのはどうでしょうか。僧侶さんを呼んでお経を唱えたり、ダンサーや劇団を呼んで舞台をしてもらったりするのはどうでしょうか。建築の告別式は、その建築に関わってきた方々に参加してもらい、慰めの言葉を寄せ、ひとりひとりが焼香したり献花をしたりします。そこで最後の別れとします。

 その後、火葬します。

 そもそも建築を生物としてとらえる考え方は、日本のアミニズムから来ていると言えます。どんなものにも魂があって、神様が宿っているという考え方です。建築は、そこにある内装や外装、そこにいる人や物、温度や音、時間や経過によって、違った性状を再現します。それはまるで人間のような気分や感情の変化、雰囲気の変化を感じてしまうのは、私だけだろうか。そこは建築として、動かない静かな物質でしかないものなのに、動いている生命体であるように思えてしまうのです。

 そんな建築だからこそ、私たちは建築の看取り方も考えなくてはいけないと思ってしまうんです。最近、至る所に空き家や使用されていない廃屋、廃墟などを見かけます。これらはまさに葬式をされてこなかった建築たちといってもいいのではないでしょうか。また解体されている建築をみることもあります。そのとき、その建築を使用していた人間の姿は見当たりません。シャベルカーが家の屋根に引っ掛け、家の中身がみえてきます。そのとき、家の外の空間と家の内の空間が同時に現れます。その瞬間になんとなくぎこちない雰囲気が宿ります。それは建築の叫びなのか、建築の血なのか、建築の切腹なのか、それはなんなのか全然わかりません。

 この話はもっともっと詰めれるような気がします。またお話ししましょう。

 

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